四国新聞掲載「愛しき日本」5月22日付けより
なぜ隠すのか。あるのが分かっているのになぜあるとは認めず「確認できない」などと言い逃れるのか。加計学園問題をめぐって「官邸のトップレベルのご意向」と記した文科省の文書のことである。「出所がわからず怪文書のようなもの」と主張していた菅官房長官も、ついには文科省の調査結果の報告をうけている、というあいまいな言い方に変わってきた。「ない」とはさすがに断定しない。1月まで事務次官だった人が「間違いなく存在していた」と証言しては、さすがに「出所が…」との言い訳は通じない。政府の言い分を信じている人が果たしてどれだけいるだろうか。世論に押されてついに文科省「再調査」に方向転換した。
筆者も早い段階で文科省内部の人から、文書が存在していることを耳にしている。なぜ、あるのにないというのか。それはあると具合が悪いからだ。具合が悪いことが記載されているからだとだれもが疑う。この問題について紙を読み上げながら答弁する政府側の人の人相が段々悪くなってきている。嘘をつき続けるとそうなる。表情に余裕がまったくなくなり、アップになったその表情はいかにも気の毒だと思わせる。それに比べて告発した格好の前次官の表情は清々しく見える。国民はこの差がどこから生まれてくるかを敏感に感じ取っている。
森友学園問題では証人喚問したにもかかわらず加計学園問題では「その必要はない」と逃げる。前次官が証人喚問に応じる、と言っているのにである。なぜか、と問われた竹下自民党国対委員長は「必要ないからだ」と答えている。こんな人を馬鹿にするようなことを言っていたのでは、きっと草葉の陰で実兄の元首相も嘆いているだろう。
「安倍一強」と言われるほど強い自民党が何をおそれてこれほど無様な対応をしているのか。危機管理は初めの一手が大事で、少しずつ後退していくのは最悪の戦術ということを知り尽くしているはずなのに、なぜ隠し切れないことを隠そうとするのか。そのために「岩盤規制に穴をあけるのがねらい」という安倍首相のせっかくの主張も信頼性の乏しいものになっている。
それにしても、と思う。「李下に冠を正さず」、すなわち疑わしい振る舞いはしないという先人の教えはどこかへ忘れ去られてしまったのか。首相が「腹心の友」と公言する加計学園とを結ぶさまざまな人のつながりの多いことに驚く。昭恵夫人が加計学園経営の子ども園の名誉園長だったり、官邸の役職に系列の大学の学長がついていたり、また関係ある人物が最高裁判事になっていたりする。おそらく獣医学部問題とは無縁の偶然のことだとしても、疑われたりしないかという想像力が働いていないことが理解できない。
さて再調査を文科省はどのように進めるのか。調べる気があれば、半日でも足りる。遺棄したなどといっても、いまは消去したパソコンのデータはいくらでも復元できる。たくさんのメール文科省再調査 のデータが文科省内のパソコンに残っているはずだ。
嘘はいつかはばれる。「天網恢恢疎にして漏らさず」である。アメリカではトランプ大統領にまつわるロシアゲート疑惑が問題になっている。展開次第では大統領弾劾にまで発展する可能性がある。上下両院とも与党共和党が多数を占めているのに、大統領に不利な証言をする前FBI長官を公聴会に呼ぶ。同じことがなぜわが国ではできないのか、有利だと思われるときは証人喚問し、そうでない場合は拒否する。
米大統領の振る舞いには唖然とさせられることが多いが、それでも疑惑を解明しようという民主主義の基本はまだまだしっかりしているなと羨ましくさえ思う。「出所が明らかでない文書にはコメントする必要もない」とか「辞めた人が勝手なことを言っているにすぎない」という姿勢では大方の国民の納得は得られない。国民の心は離れて行くだろう。針の穴から漏れた水で堤防は崩れる。政治不信が取り返しのつかないほど深まって行くのを恐れる。