=このままじゃミュージシャン志望して「死亡」 =
このままじゃミュージシャン志望して「死亡」。いや、衝撃的な言葉(詞)だけど、実に言い当てていますよね。おまけに、「芸人も役者も夢は喰いもの」と重ねてこられると、そうかも…みたいな気持ちもあります。
そうすると、そもそも「音楽」って商売になるものなのかな?という本質論になってきますね。
冷静に考えてみると、1998年のCD絶頂期も、昭和40年代~50年代も、日本の高度成長期真っ盛りで、
いわゆるバブルでした。歴史的に日本の「絵画」や「能」などいわゆる「芸術」は、その時代の覇者の財力で護られてきたような気がします。ヨーロッパの貴族の社交界のイベント音楽としてクラッシックが発達したように。みんなが競ってお抱えの芸術家のパーフォマンスの見せっこ、虚栄を張っていた時代。
そう考えると日本の大衆音楽も、封建時代が終わった後は、大企業の世界的躍進がそれに代わって音楽「芸術」を、ビジネスではあったがいろいろな形で結果的にサポートしてきたと言えます。そのバブルが終わってしまった後、誰も音楽に金を払わない、払う仕組みを作ろうともしないということだと思います。
そうなると、このゴールデンボンバーのように、自分たちでそのスポンサーになってくれるエネルギーを民衆の中に「ファン」と言う形で求めていく「コミュニティ」作りなのかなと思います。
よくある、農協を通さず、野菜や、ミルクを直接販売して、生産者と消費者がコミュニケーションをとれる形で「自分たちだけの価値あるもの!」みたいな動きとおなじだと思います。
音楽もその中で、「こだわりの発信」と「わがままなカスタマイズ要求」のバランスで、一緒に体感、成長していく中のコミュニケーションツール的共通言語、感動の共有的役目が求められるのかもしれません。