「世は歌につれ」/歌謡曲ルネサンス
57.出会えた人出会えなかった人 中山大三郎
初対面はホテルの有名な和食の店だった。「人生いろいろ」を作詞した中山大三郎にどうしても会いたいと島倉千代子に頼んだ。中山大三郎に話を訊かないと「島倉千代子という人生」という僕の著作は出来上がらないからである。
ランチだったが彼は酒を注文した。初対面の人間に会うときには照れ隠しの意味もあって飲まなければ話ができないような風情だった。
話は「新潟ブルース」から始まった。作詞は新潟の山岸一二三、作曲は山岸英樹の兄弟。中山大三郎は詞の補作をしている。この時の中山の名前は水沢圭吾。美川憲一、黒沢明とロス・プリモスらの競作となったこの歌はいまだに新潟を代表するご当地ソングである。「思い出の夜は 霧が深かった 今日も霧が降る 万代橋よ」。
中山にした最初の質問は「新潟へ行って向こうで書いたのですか?」答えは「いや。書いた時にはまだ新潟へ行ったことがなかった」「でも万代橋なんて出てくるじゃないですか。あの橋、信濃川にかかっているいい橋ですよ」「観光パンフレットを持ってきてもらってね。そのうち、歌が流行り始めたら、どうぞというので行った」。
中山大三郎は水沢圭吾で6曲書いている。その中でも最高なのは「夜の銀狐」(歌:斉条史朗作詞:水沢圭吾作曲:中川博之)「淋しくないかい うわべの恋は こころをかくして踊っていても」。いまでもカラオケでよく歌われている名曲である。この中に意味不明な横文字が出てくる。Zorro gris de la noche。スペイン語で夜の銀狐。かなり洒落た詞である。
のちに中山大三郎は島倉千代子の「人生いろいろ」の作詞をする。初めはまったく趣の違う歌だった。下戸の島倉千代子に酔わせてしまうような歌を、と中山は書き、「笑いばなしにして」が題名だった。そしていつの間にか「人生いろいろ」となりB面からA面に格上げされた。
この歌が発売されたころ、僕は米国ワシントンにいた。2年後ぐらいにコロッケや山田邦子がモノマネで首をかしげながら歌って人気が出てきた。しかし、この歌が130万枚も売れ、島倉千代子の「第2のデビュー曲」と云われるほどになるとは想像もつかなかった。この歌がなければ、島倉千代子は中堅歌手のままで終わっていたかもしれない。だから中山大三郎と浜口庫之助にはすごい恩義を感じているなとそばに居てわかった。
小泉純一郎首相が国会の委員会答弁で「人生いろいろ、会社もいろいろ、仕事もいろいろ」と発言し、かなり話題になったことがある。民主党の岡田克也議員が、小泉が若いころ、勤務実態がないのにある会社から給与をもらっていた、と追及したことへの答弁だった。
それより前、小泉に「島倉千代子のファンだよ」と言われて引きあわせたことがあり、拙著「島倉千代子という人生」の出版記念会では小泉が発起人の一人だった。島倉千代子の死後、コロムビアが「私の好きな島倉千代子のⅠ曲」というアルバムを出すことになり、小泉に持ちかけたら二つ返事で「人生いろいろだろ?」とOKが出た。
中山大三郎が亡くなってから、不思議なめぐり合わせだなと思うことがたくさんあった。
まず、中山大三郎は作詞家星野哲郎の弟子である。そして驚いたことに友人の作曲家美樹克彦と若草恵は二人して中山大三郎の兄弟弟子だったのだ。
また、全日本こころの歌謡選手権大会を開くにあたり、美樹、若草両作曲家の協力も得て、課題曲を13曲作り、心が伝わるような歌い手を探して歌唱をたのんだ。その中に「だってGIRIGIRI」を歌っている暁月めぐみがいる。なんと彼女は中山の晩年、住み込みの内弟子だったのである。
あの世で中山大三郎が助けてやれといろいろな人に声がけしてくれているに違いないと思っている。中山からもらった手紙の中にこういう一節がある。僕が「大英帝国衰亡史」について書いた書物を読んで「小生も読みました。一介の歌謡曲作りではなく『読書人』という意識を持ちたいからです。だれに話すためでもなく、いろいろ読んでいます」とある。知識欲、好奇心の旺盛な人だった。従兄弟に政治家がいるせいか政治の話が大好きだった。
下戸の僕は「幻の銘酒」をよくいただく。それを彼に送っていた。それが命を縮めたのかも知れないと忸怩たる思いだ。ときどきいくつか僕より兄貴分の彼を思い出すため、彼の歌を歌う。「北緯五十度」(作詞:中山大三郎作曲:望月吾郎)「涙 黒髪 えりあし おくれ毛 小指 くちびる 思えばつらい」。「大ちゃん先生」はいまも偉大だ。