1.「歌謡曲ルネサンス」事始め
74歳のいま、毎日、歌謡曲と暮らしている。といってもカラオケボックスに入りびたりというわけではない。あまり本気にしてもらえないが、ダメになっている歌謡曲のために、余生を捧げる覚悟で歌謡曲ルネサンスという国民運動を始めたのである。
歌がダメになっている? そんなことはないだろうとこれを読んでいるあなたは感じている。そうなのだ、ダメになっていることに気がつかない人があまりにも多いのだ。この連載も国民運動のひとつの積もりである。
長田暁二という人物がいる。ウィキペディアでは「大衆音楽文化研究家」となっている。いま88歳。民謡、童謡、軍歌から歌謡曲まで、たくさんの書物を書いている。20年ほど前、話を聞きに行ったことがある。お茶一杯で3時間ほど話し込んだ。帰りがけに「あんたもかなり歌を知っているね。ボクの後継者にならんかね」と言われた。プロにそう言われるほどたくさんの歌を知っていることにそのとき初めて気づかされた。
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歌謡曲との関わりについて語るとき、島倉千代子から始めざるを得ない。父親が早逝したため、昭和32年青森から両親の郷里の山形県白鷹町へ母親と弟2人とで引き揚げた。13歳、中学生になったばかりだった。傷心から立ち上がれずにいた大晦日、炬燵の上にラジオを置いて、紅白歌合戦を聴いた。初出場の女性歌手がこの世のものとは思えないような透き通った声で歌った。それが19歳の島倉千代子で、歌は『逢いたいなァあの人に』(作詞石本美由起、作曲上原げんと)。歌い出しは、暴れる高音を上から押さえつけるような低音で「島の日暮れの段々畑」で入る。
それまでもラジオで歌謡曲、当時は流行歌と言ったが、たくさん聴いていた。正月に父親の職場の人たちが自宅に集まったときなど、人前で湯の町エレジーやお富さんなど、意味も分からずに歌っていた。でも島倉千代子は聴いたことがなかった。歌を聴いてから3カ月後、母親と兄弟3人は公務員だった父親の退職金の残り3万円を持って上京した。
島倉千代子の歌は、父親の死という悲しみと、初めて見る大都会東京での胸躍る未来への夢と重なっていた。東京の西のはずれに住むようになって間もなく、私は品川区北品川に出掛けた。
訪ねた家には「島倉寿雄」という表札がかかっていた。その横に大きな字で「島倉千代子後援会」の看板が掛けてあった。出てきた女性はなんとなく似ているように思えたので、3人のお姉さんのいずれかだったように思う。
島倉千代子後援会に入会したのは15歳高校一年のとき。会員バッジはいまもどこかにあるはずだ。それからしばらくは大スターとファンの一人という関係だった。紅白歌合戦を見たくて往復ハガキを50枚ほど書いて投函した。そのころは1枚は当たった。いまは2千枚に1枚くらいの確率らしい。昭和35年、島倉千代子は初めて大トリを取った。このときのことは青山葬儀所での告別式の弔辞の中に織り込んだ。「会場の東京宝塚劇場の片隅にいた私は、これからの人生でこれ以上の幸せはもう来ないだろうと思ったものでした」
高校時代は懸命に歌を聴いた。芸能雑誌は「平凡」と「明星」が張り合っていたが、美空ひばりは平凡、島倉千代子は明星となんとなくファンが買う雑誌は分かれていた。もちろん明星を買ったが、一緒に「中央公論」を買うので書店で不思議がられた。今で言う追っかけであった。高校の生徒会長選挙に立候補したが、応援弁士が「島倉千代子ファン」とばらしてしまい、女子票が逃げて落選した。
新聞社に入って大阪で社会部記者をしているころ音楽担当の先輩が大阪フェスティバルホールの楽屋へ連れて行ってくれた。目の前にジーパン姿の島倉千代子がいる。ジロッとこちらを見る。表情が変わらない。まったく覚えていないのだ。無理もない。一説には後援会員は3万人いるとも。
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私が誰であるかを認識して目の前に現れたのは私が50歳、彼女が56歳のころだった。島倉千代子と友達だという吉永みち子が「明日晩飯するんだけどあんたも来る? ファンだったんだろ」と電話してきた。赤坂の料理屋に島倉千代子は誰よりも早く来ていた。黒っぽい地味な服でメガネをかけている。下を向いてもじもじしている。ジーパン姿のときと別人のようだ。
席が隣だったのでさりげなく聞いてみた。「つまらなくないですか」。そのとき彼女が放った一言は忘れられない。こう言ったのである。「わたし、なんにも知らない人間なんです」。こんな有名人が、自分を何も知らない人間という。政治家をはじめおびただしい数の有名人に会うことを生業としてきたが、自分のことをそのように言った人は皆無である。当時大手出版社と小説を書く約束をしていた。取材もほぼ終わり、そろそろ筆を取らざるを得ないころだった。
島倉千代子の一言を聞いた瞬間、そうだ、この人を書こうと決めた。それから1年ほど、寝室と風呂場以外はほとんど追いかけた。NHKホールのリハーサルでは、歌手の気持ちを探ろうと舞台中央のマイクの前に立ってみた。何も質問せず、すべての行動をそばで見続ける。
『島倉千代子という人生』という著作について「私の人生はこの本で大きく変わりました」と彼女が言ったが、私の人生も変わった。「私に欠けているものは何?」「普通の人が感じている小さな幸せ」。そういうやり取りを何度も交わした。電車に乗ったことのない人を中央線に乗せ小金井の星野哲郎邸へ連れて行った。帽子にサングラス、マスク姿。声をあげてはしゃぐ。その声でばれてしまい電車が傾くのではないかと思うぐらい乗客が押しかけた。
16歳からトップスターだった島倉千代子には叱ってくれる人がない。私は意識的に悪いところを指摘した。歌い方にも注文をつけた。ときどきケンカになった。たくさんのファンに愛されて、たくさんの関係者に囲まれて、それでいていつも孤独な人であった。(敬称略)
※月刊「FACTA」2019年1月号より転載
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