嘘つけば悪くなる
新聞記者として50年、たくさんの人に会い、たくさんの人の顔を見てきた。顔はその人のほんとうの履歴書である。いい顔をしているな、と思える政治家が少なくなっている。世の中にはしばらく眺めていたいなと思わせるような素晴らしい顔の人がたくさんいる。積み重ねた苦労と流した涙の量と、あふれんばかりの思いやりが造り上げた顔からは問わず語りに物語が聴こえてくる。そういう顔の政治家が最近、減ってきた。政治の劣化と関係あるような気がする。
国会答弁をテレビで見ていて思うのは、明らかに嘘だと思われることを言っている政治家も、また役人も、表情が悪くなっている。こういうことを続けていると顔そのものが悪くなってくるのだと思う。昔、大平正芳番の記者のころ、大平さんが私にこう言った。「君はどうしていつも平気な顔をしているのか」。生意気盛りの私は天下の大蔵大臣(当時)に向かってこう答えた。「悪いことしたり考えたりしていないからでしょ」。大平さんは「ひどいこというなぁ」と笑っていた。いまでも忘れられないほど素敵な笑顔だった。
内閣官房長官の菅義偉さんは苦労して政治家になった人で、若い頃から私は注目していた。秋田県の南の出身で言葉もどこか山形出身の私と似ているようだ。テレビで対談した時、声だけ聞いているとどちらが話しているのか見分けがつかないと言われたこともある。
期待をかけていた菅さんが加計学園問題で文科省の文書について「怪文書のようなものでしょ」と記者会見で切り捨てた。瞬間、私はまずい発言をしたと思った。怪文書でないことを一番良く知っているのは菅さんのはずだ。しかし「ない」という前提でないとすべてのつじつまが合わなくなる、そう考えて「怪文書」と言ってしまったのだと思う。まずいと思ったのは、そのときの菅さんの表情がすごく嫌な表情だったからだ。私の経験で言えば、本当でないことを言っているときの表情なのだ。
案の定、存在することがはっきりし、事態はさらに混迷の度を深めた。ことほど左様に政治家の表情、とりわけ問題の発言の部分については何度も同じ映像が流れる。あまり名誉でないこの種の映像が政治家のイメージを作り上げてしまうのだ。では焦点の人となった前川喜平前文科省事務次官はどうだったか。読売新聞に「デートクラブに出入り」と書かれたときには。私も驚いた。新宿歌舞伎町の風俗店に現職の事務次官が通っているなどという話は聞いたことがない。この記事を見て「これはだめだ」と感じた。ところが記者会見に現れた前川さんを見て驚いた。表情が悪くなっていない。後ろめたさも嘘を言っているという様子も感じられない。「貧困調査のために何回も行きました。小遣いをあげて話を聞きました」とさらりという。そんなところへ高級官僚が調査に行く?とだれでも不思議に思う。昔、官僚がノーパンしゃぶしゃぶへ出入りしていると騒ぎになったことがあったので私でさえ、あの前川さんが、と思い込んでいた。
やがてあふれるほどの報道で前川さんの言っていることが本当だと判明した。清々しささえ漂うあの表情は、まったく恥じることのないことを証明しているようだった。
矢面に立たされた松野博一文科大臣。「そのような文書は調査の結果、確認できませんでした」と全面否定したときの表情と、再調査して「19の文書のうち14確認できました」と認めた時の顔つきは別人のように違う。この基準で言えば、「総理の意向」と文科省に指示したと言われる萩生田光一官房副長官の表情から何かを読み取れるだろうか。安倍晋三首相は最近、にわかに内閣支持率が下がっているが、表情にはあまり変化が感じられない。政治家の顔としては悪い顔ではないし、背も高いので国際舞台では見栄えがする。ただ自信を強めているせいか、表情や言葉から思いやりとか人間臭さとかいまひとつ感じ取れない。国民が政治家の言葉や表情から信頼感を感じるのは「ここまで洗いざらいさらけ出しているんだな」と思える時である。