8.「お願いもう一度」 ちあきなおみ
ちあきなおみのこの歌をぜひ聴いてほしい。ユーチューブでも可能です。
霧笛(むてき)(難船)
霧笛が啜(すす)りなく 海沿いのホテル
これが最後の旅と 決めたはずなのに
やめて…そんなに優しく
抱きしめないで…別れに
うしろ髪…ひくよな
噫(ああ)…素振りはよして…
夜明けを告げて飛ぶ海鳥の悲鳴
愛しつかれた胸に ひりひりといたい
あなた…別れの乾杯
最後のグラス…空けましょ
ありがとう…今日まで
噫…夢の数かず…
あなた…私を許して
グラスの毒は…愛なの
どなたにも…あなたを
あなたを…渡せないから…
ちあきなおみは「私、ほんとはポルトガルのファドのようなやりきれないほど暗い歌が好きなんです」と語ったことがある。この歌はポルトガルのファドの女王、アマリア・ロドリゲスの「難破船」という歌で、日本語の詞はこれほど哀しい歌の書き手はいない吉田旺である。ちあきなおみの歌はスケールの大きな一人芝居のようである。哀しさと恐ろしさと、そして愛らしさを見事に表現する。日本人の歌手でこれほどファドを歌いこなせる人はいない。
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もう5年以上前のことになる。作曲家の船村徹の機嫌のよさそうなときにこう話しかけた。「ちあきなおみにもう一度歌を歌わせる会というのを作ったんです。先生も入ってください」。「ほう、おもしろいこと考えるね。ほかにだれが?」「NHKの宮本隆治アナです。先生が声かけてくださればちあきなおみも断れないでしょう」「いや、僕でもダメだと思うよ」。ちあきは「船村先生の演歌なら歌う」と「矢切の渡し」「紅とんぼ」「酒場川」「さだめ川」「新宿情話」など数多く歌っている。何回か、先生、あの話そろそろ、と声をかけてみたが、そうだな、と言ったままあの世へ旅立ってしまった。
ちあきなおみにまず会わなくちゃ、といろいろ試みたが、うまく行かない。第一、最近会ったよという人がいないのだ。2人ばかりときどき会っているらしいという人に打診してみたがうまく行かない。麻布十番のスーパーに買い物に来るらしいという噂を耳にして行ってみたことがあるが、もちろんダメだった。なかなか会えないということではかつて有名になった「鎌倉の原節子」状態なのである。旦那さんの郷鍈治(ごうえいじ)さんが亡くなってから、歌うことも公の場に出ることもなくなった。挨拶状で「しばらく静かにしてほしい」と言っただけで引退するとは述べていない。あの声と自然な発声法で、72歳のいまでも歌えると信じている。歌のうまさというよりも声そのものがドラマのようである。
美空ひばりとちあきなおみの双方に曲を書いている船村徹は「決定的な違いは裏声が出るか出ないかだ」と語っている。ひばりは出るがちあきは出ないと言っているのだ。大作曲家の指摘に逆らうつもりはないが、よく聴くとちあきもいわゆるファルセット(裏声)で歌っているように思われる箇所が少なからずある。船村演歌も歌い、ファドやシャンソンも歌う。紅白歌合戦では友川カズキの「夜へ急ぐ人」、狂気と怒りに満ちた歌を歌い、度肝を抜いた。「ねぇあんた」などという歌はちあきでなければ絶対に歌えないといわれている。
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デビューしたころのちあきなおみはコロムビア・レコード(当時)の歌手としては知っていたが、あまり興味はなかった。ちあきが変貌したのは「喝采」(作詞吉田旺、作曲中村泰士)からだと思う。13枚目のシングルでレコード大賞を獲った。楽譜をみながらちあきの歌を聴いていると、楽譜にはない音符がたくさん聴こえてくるような気がする。だから例えば「矢切の渡し」のちあきと細川たかしを聴き比べると、別の歌かと思うほどだ。
これまで夥しい数の歌手の歌を聴いてきた。たくさんの著名な歌手にも会ってきた。会いたかったけど会えなかった人が3人いる。美空ひばり、石原裕次郎、そしてちあきなおみである。ちあきを理解したくてポルトガルへ出張で行った折、ファドを聴きに行った。ちあきなおみが歌うことをイメージしてファドのような暗い哀しいドラマチックな歌を書いた。西山ひとみが歌って、カラオケにも入っている。
Espelho(エスペーリョ、 鏡)
作詞清志郎、作曲中里哲也
行きずりにやさしい言葉をかけられて
初めて恋したその人は
結ばれてはいけない人でした
私は母を知りません
父の顔も知りません
永遠(とわ)にと誓ったその人は
Quem e aquela pessoa?
(あの人はだれ)
運命のいたずらでしょうか
私が真実を知ったとき
その人は泣いて詫びました
だれも知らない 知らない町で
二人ぼっちで暮らそうと
黙っていて悪かった
Quem e aquela pessoa?
血でしたためた最後の手紙
「死ぬなよ 絶対死ぬなよ」
記憶も薄れる昔のこと
私はこうして生きています
あの人はこの世のどこかで
生きているのでしょうか
鏡の中の私の顔に
そう兄の面影を追ってます
死ぬほど辛く 悲しく
そしていま 少しばかり
甘い思い出
Quem e aquela pessoa?
(敬称略)
※月刊「FACTA」2020年3月号より転載
FACTA online→ https://facta.co.jp/