「世は歌につれ」/歌謡曲ルネサンス
55.出会えた人出会えなかった人 森進一
昭和44年4月、新聞社へ入った僕は大阪勤務を命じられ、寮生活を始めた。古い寮には同期生10人ほどが6畳と3畳の一部屋に2人一組で住んだ。
初めての関西勤務だが、さしたる楽しみもない。殺風景な部屋でのテレビもラジオもない生活。そのうち別の部屋に住むS君がステレオを買った。ステレオはあるがレコードがない。僕が買おうと申し出て。LPレコードを一枚購入した。
森進一である。「望郷」(作詞:橋本淳作曲:猪俣公章)「女心の 故郷は 忘れたはずの男の胸よ」とか「港町ブルース」(作詞:深津武志作曲:猪俣公章)「背のびして見る海峡を きょうも汽笛が遠ざかる」「女のためいき」(作詞:吉川静夫作曲:猪俣公章)「死んでもお前を 離しはしない そんな男の約束を」など初期の歌が入っているアルバムだったと思う。
毎晩のようにS君の部屋で森進一を聴きあった。それから40年ほど過ぎて、僕が歌の世界にのめり込み、S君は演歌路線のテレビ東京の社長になるのだから人生はわからない。
話は脱線するが、島倉千代子の葬儀のとき、弔辞を読んだ3人は石川さゆり、僕、そしてS君だった。なんでも美空ひばりの葬儀のときは当時のテレビ東京の社長が弔辞を読んだので、それにならったということらしい。最前列に石川さゆりと3人で並んで「よりによってこんなところでお前と並んで座るとはなぁ」と小声でささやき合った。
それから森進一を聴いてきた。もっとも歌を聴くだけの余裕のなかった時期もかなりあるので、すべての歌を知っているわけではない。ただ、あの声と、人柄と、そしてほんとうか噓かわからぬが、ささいなことが森進一への関心を強いものにした。
山梨県で生まれ、鹿児島で育った森進一は中学を出ると上京し、バンドボーイなどをして働く、と履歴にはある。そのころ東京の立川市のレストランで働いていた、という事実かどうか確かめようのないささいなことが、僕の森進一像のど真ん中に存在しているのだ。僕の通った高校が立川にあったということだけのことなのだが。
NHK時代に歌謡番組制作のプロデューサーだったM氏は穏やかで極めて尊敬できる人だ。そのMさんに「一番歌がうまいと思った歌手はだれ?」と訊ねたことがある。Mさん、間髪をいれず、静かな声で「森進一」と答えた。
うまいとか下手とかの基準で判断できない歌手だと僕は思っていたので意外だった。年齢や喉の病気などの影響もあるだろうし、少しずつ声にも変化があるように思う。しかしながら森進一独自の歌い方で半世紀もの間、トップスターで歌い続けてきたのは偉大なことだ。
昔、新宿コマ劇場のワンマンショーに行ったことがある。きゃーっと黄色い声を張り上げるおばさま軍団に驚いた。あの世代のファンがみな高齢化して、次の世代のファンをつかむために、おのずと新曲の方向が変わっていかざるを得ないのだろう。
暗中模索といおうか試行錯誤といおうか、森進一らしさが出ていない曲もあるように思う。ほぼ同世代の僕からみれば、もっと森進一らしい歌を歌ってほしいのだ。たとえば、「哀の河」(作詞:かず翼作曲:四方章人)「女が死ぬほど つらいのは 愛しながらも 別れる恋いよ」この歌はさほどヒットはしていないが、森進一でなければ歌えない歌だ。
僕もときどきこの歌のほかに「それは恋」(作詞:秋元松代作曲:猪俣公章)「朝霧の 深い道から 訪れて 私をとらえ」。「京都去りがたし」(作詞:売野雅勇作曲:森進一)「比叡おろしの吹く夕暮れは 仕方ないほど あゝ 淋しくて」など森進一を歌うことが多い。というのもキーが彼と同じぐらいなので、他の歌手の歌をキーをあげて歌うより楽だからだ。
森進一には二つの路線があると思う。いわゆる演歌路線と「襟裳岬」(作詞:岡本おさみ作曲:吉田拓郎)「北の街ではもう 悲しみを暖炉で 燃やし始めてるらしい」や「冬のリヴィエラ」(作詞:松本隆作曲:大瀧詠一)「彼女(あいつ)によろしく伝えてくれよ 今ならホテルで寝ているはずさ」などのポップス調。好みの問題だが、僕は断然演歌路線派だ。「女」を歌う森進一演歌の決定版をと願うのは僕の世代では多数派だと思う。
人前で最初に森進一の歌を歌ったのは30歳になるかどうかというころで「さざんか」(作詞:中山大三郎作曲:猪俣公章)「春に咲く花よりも 北風に咲く花が好き」を歌った。森進一の新曲だった。
ある労働組合の幹部らとの会合だった。委員長の秘書のような男が歌い終わった僕のところへすっ飛んできた。血相を変えている。「偉いことになりました。あの歌はいま委員長が十八番にしている歌なんです。それを先に歌われてしまって」。だれが何を歌おうとも勝手じゃないか、と言うべきところだが、それではこの秘書氏の首が危ない。
委員長のところへ行って「すんません、十八番を先に歌いましたが、あくまで前歌ですから」とわびを入れて事なきを得た。それだけにこの歌は忘れられない。
このあとに中山が作った「ゆうすげの恋」(作詞作曲:中山大三郎)「ゆうすげは淡い黄色よ 夜に咲き 朝に散る花」は「さざんか」を進化させたような曲である。
森進一の歌をそれまで以上に身近に感じたのは昭和59年大晦日のNHK紅白歌合戦で初めて聴いた「命あたえて」(作詞:川内康範作曲:猪俣公章)「離れていました 長いこと 女ひとり寝 眠られず 息ずく乳房 抱きしめながら」であった。「命かれても」(作詞:鳥井実作曲:彩木雅夫)「惚れて振られた 女の心 あんたなんかにゃ わかるまい」も大ヒットした歌だが、この命あたえてはそれとも違う女の情念を激しく表現している。
ちょうど新聞社の特派員として米国ワシントンへ発つ最後の紅白だったのでことさら記憶に残っている。このときの音声をカセットテープに録音し、毎日の車通勤で聴いていた。それが2年後のワシントンでの日本航空主催アメリカカラオケ大会の優勝につながるのだからこれもまためぐり合わせか。