世は歌につれ 月刊「FACTA」連載

「お千代」「ひばり先輩」の絆|月刊「FACTA」連載 世は歌につれ/田勢康弘


5.「お千代」「ひばり先輩」の絆

島倉千代子は作曲家船村徹にこう話しかけた。「先生、私にもみだれ髪のような曲を書いてくれませんか」。それより50年ほど前、2人の間に同じような会話があった。コロムビアでデビューしたばかりの島倉が気鋭の作曲家船村にこう語りかけた。「先生、ひばりさんの『波止場だよ お父つぁん』、ああいう歌を私にも書いてください」。船村が「島倉くん。君のイメージはおっ母さんだろ」ということで「東京だョおっ母さん」が誕生した。島倉版みだれ髪は出来上がらなかったが、みだれ髪は作詞家星野哲郎、船村、そして美空ひばり。この3人が精魂込めて造り上げた歌である。病床から抜けだしてレコーディングに臨んだひばりは、2回歌って3回目は本番の同時録音である。バンド演奏と歌手の歌を同時に録音するいわゆる「同録」は、歌謡曲の歴史の中でおそらくこれが最後だっただろうといわれている。「病気だからと加減しないでいつもの船村メロディーでね」とひばりは船村に言った。詞を書いた星野は「春は二重に巻いた帯、三重に巻いても余る秋」と恋にやつれた女の姿を書いたが、もちろん、ひばりの姿を意識していた。歌の最後は「ひとりぽっちにしないでおくれ」だった。「星野先生、ここはこのまま残してね」。病み上がりの歌手に歌わせるのはあまりにも残酷だと思わせるような難曲で高低差も大きい。ひばりは文字通り命がけでこの歌を歌い切った。C型肝炎を患い、常に死への恐怖と戦っていた島倉は、自分にもみだれ髪のような代表曲がほしいと心底願っていたのだ。

ひばりと島倉、この2人の会話をそばで何回も聴いていたことのある島倉の付き人の綿引あつ子によると、ひばりは島倉を「お千代」、かしこまった場合には「お千代さん」。島倉は「ひばり先輩」。年齢でいうと2人は同学年である。私も数えきれないほど島倉とひばり論を戦わせたが、彼女が「ひばり」と呼び捨てにしたことは1度もない。「ひばり先輩」か「ひばりさん」である。

子供のころ、島倉は歌がうまかった長姉敏子の影響で歌い始める。一番歌ったのはひばりの「越後獅子の唄」だった。この歌との出合いがなければ、島倉は歌手にはなっていなかっただろう。自らのコンサートでも、必ず何曲かはひばりの歌を披露する。みだれ髪、悲しい酒、哀愁波止場、哀愁出船、車屋さん、港町十三番地……。一方のひばりはシャンソンでもジャズでもなんでも歌う。後輩歌手の歌もたくさん歌っている。森進一や五木ひろしの歌までカバーしている。それなのに不思議なのは、ひばりが島倉の歌を歌ったという話はまったく聞いたことがない。なぜか。もちろん、昔は他の歌手の歌を歌うのはタブーだった。レコード会社の「専属」の縛りが厳しかったからである。しかし島倉とひばりは同じコロムビア。一説にはコロムビアの内部事情がある。コロムビア内部ではひばりはあくまで「女王」、島倉はどんなに売れても「2番手」のスターだった。女王に2番手の歌は歌わせられないとひばり担当者は考えていたのではないか、というのである。

この説はいくらか正しいとも思うが、私はそこにひばりの凄さを見る。ひばりは島倉の歌は自分に合わないと考えたのではないか。島倉の歌の中にはひばりが歌ってもおかしくないような歌がたくさんある。ひばりが歌う「人生いろいろ」など聴いてみたかった。ひばりはこう考えたのではないか。島倉のかそけき高音と上から抑えこむような低音は、島倉だけしか出せない声だ。その歌を自分が声量たっぷりに歌うとまったく違う歌になってしまう。つまりひばりは島倉の歌唱法をかなり評価していたのではないか。島倉がひばりの歌を歌ってもひばりのイメージは崩れない。しかしひばりが島倉の歌を歌うと、うまく歌えば歌うほど、島倉のイメージは崩れ、自分のイメージまで崩れる恐れがある、と考えていたのではないか。島倉が亡くなってから、たくさんの女性歌手が島倉を偲んで歌うテレビ番組を見たが、うまいな、と思える歌手は1人もいなかった。いまカラオケ大会などで島倉の歌を歌う人にはほとんどお目にかからない。島倉の歌は島倉のイメージが強すぎて、なかなかうまく歌えないのだと思う。

ひばりはファルセット(裏声)を多用する。地声とファルセット、同じ音量で歌える。しかも「地声からファルセットに移る瞬間、大抵の歌手は『間』があるが、ひばりにはそれがない」(船村徹)のだという。ひばりは高音だけでなくそれより低い声でもファルセットを使うことがある。おそらくまったく自分では意識することなく地声とファルセットの使い分けが出来ているのだろう。

名古屋の御園座でのこと。島倉は地味な格好をして自分でチケットを買ってひばりのショーを聴きにきた。ひばりは「おまえに惚れた」という歌の中で「惚れた惚れたよ、おまえに惚れた」と客席の島倉を指さしながら歌ったのである。これが熱烈なひばりファンの逆鱗にふれ、劇場から出る時、取り囲まれてしまった。

ひばりが亡くなった日の夜から3日間、島倉は目黒区青葉台のひばり邸で泣き続けていた。それが「島倉はひばりを利用している」と芸能評論家に書かれ、それ以来、命日にも行けなくなったと嘆いているのを聞いたことがある。

ひばりと島倉。島倉にとってひばりは「神様」。ひばりは晩年、島倉にずんずんと近づいてきたように思う。病気や離婚などの「不幸」がそうさせたのではないか。空の上でいまごろ、「お千代」「ひばり先輩」と呼び合いながら「越後獅子の唄」を一緒に歌っているような、そんな気がする。(敬称略)

背が10センチ以上高い島倉が低く見せている(86年ひばり邸のひな祭りで)  写真提供:ひばりプロダクション

※月刊「FACTA」2019年9月号より転載
FACTA online→ https://facta.co.jp/

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